2050年カーボンニュートラルという幻想──シリーズ「CCSは地球を救うのか?」⑤

世界は今、2050年という一つの年を目指して動いている。

2050年カーボンニュートラル。人間の活動によって排出される温室効果ガスと、森林などによる吸収・除去量を差し引き、実質的な排出量をゼロにするという壮大な目標だ。

日本をはじめとする多くの国々が、この目標を掲げている。政府は脱炭素社会への移行を宣言し、企業は巨額の設備投資を計画し、新しい技術や産業の育成に公的資金が投入されている。

しかし、ここで一つの素朴な疑問が生じる。

2050年にカーボンニュートラルを実現できるという根拠は、いったいどこにあるのだろうか。

目標を掲げることと、その目標を達成できることは、まったく別の話である。

しかも、2050年の前には2030年という中間目標がある。こちらは、もはや遠い未来の話ではない。あと4年しか残されていないのだ。

今回は、世界と日本の温室効果ガス排出量の現実を確認しながら、カーボンニュートラルという国家目標が抱える問題を考えてみたい。

科学的なシナリオが国家目標になるまで

2015年、国連気候変動枠組条約第21回締約国会議(COP21)で「パリ協定」が採択された。

パリ協定は、世界の平均気温上昇を産業革命前と比較して2℃より十分低く抑え、1.5℃に抑える努力を追求することを目標としている。

その後、2018年に気候変動に関する政府間パネル(IPCC)が公表した「1.5℃特別報告書」は、温暖化を1.5℃程度に抑える経路では、世界全体の人為的なCO₂排出量を2050年前後に実質ゼロにする必要があることを示した。

これが、2050年カーボンニュートラルという目標の科学的な根拠の一つとなっている。

ただし、ここで注意しておきたいことがある。

IPCCが示したのは、一定の気温上昇抑制目標を達成するために必要とされる排出削減の経路である。2050年に世界がカーボンニュートラルを実現できると保証したわけではない。

いわば「この目的地に到達するためには、このような道を進む必要がある」という道筋を示したのであって、その道を実際に進めるかどうかは別問題なのだ。

ところが、この科学的なシナリオは、やがて各国の政治的な約束へと姿を変えていった。

日本では2020年10月、菅義偉首相(当時)が2050年カーボンニュートラルを宣言した。EUも2050年の気候中立を目標としている。

もっとも、世界中が2050年で足並みをそろえているわけではない。中国が掲げるカーボンニュートラルの目標年は2060年、インドは2070年である。

各国の経済発展の段階も、エネルギー事情も、産業構造も異なる。当然ながら、目標年や削減計画にも大きな違いがある。

それでも、2050年前後のネットゼロという考え方は、国際社会における政策の大きな前提となった。

果たして、その前提は現実に裏付けられているのだろうか。

世界のCO₂排出量は、今も増え続けている

カーボンニュートラルの実現可能性を考える上で、まず確認しておかなければならないのは、世界のCO₂排出量の推移である。

国際的な研究プロジェクト「Global Carbon Project」が公表した「Global Carbon Budget 2025」によると、化石燃料の使用やセメント生産などに由来する世界のCO₂排出量は、2025年に約381億トンに達すると推計された。

これは2024年から約1%の増加であり、過去最高の水準である。

1990年には約230億トンだった世界の排出量は、30年以上にわたって増加してきた。

この間、国際社会は地球温暖化対策の重要性を繰り返し訴えてきた。1997年には京都議定書が採択され、2015年にはパリ協定が成立した。

再生可能エネルギーの導入も進み、電気自動車や省エネルギー技術の開発も続けられている。

それでも、世界全体のCO₂排出量は持続的な減少に転じていない。

もちろん、これをもって温暖化対策がすべて無意味だったということにはならない。対策がなければ、排出量はさらに増加していた可能性もある。

しかし、少なくとも現時点で、世界全体がカーボンニュートラルへ向けて排出量を着実に減らしているとは言い難い。

欧州などでは排出量の削減が進んでいる一方、中国やインドをはじめとする新興国では、経済成長に伴ってエネルギー需要が増大してきた。

さらに、先進国の排出削減については、もう一つ考慮すべき問題がある。

それは、製造業の海外移転である。

国内の工場が閉鎖され、製品を海外から輸入するようになれば、その国の生産活動に伴うCO₂排出量は減少する。しかし、海外の工場で同じ製品が作られているのであれば、世界全体の排出量が同じだけ減るとは限らない。

もちろん、先進国の排出削減には電源の脱炭素化や省エネルギー化による実質的な成果もある。海外移転だけで説明できるものではない。

それでも、各国の国内排出量だけを比較していては、世界全体の実態を見誤る可能性がある。

地球温暖化は国境を区別しない。ある国の排出量が減少したことと、地球全体の排出量が減少したことは、同じではないのである。

2030年さえ見通せない現実

2050年という目標があまりにも遠い未来の話に感じられるのであれば、2030年を考えてみればよい。

日本政府は2030年度までに、温室効果ガスの排出量を2013年度比で46%削減する目標を掲げている。

さらに2025年2月には、2035年度に60%、2040年度に73%削減する新たな目標を閣議決定した。

では、現在の実績はどうなっているのだろうか。

環境省が2026年4月に公表した2024年度の温室効果ガス排出・吸収量の確報値は、約9億9,400万トンだった。

2013年度と比較すると28.7%の削減であり、統計上は着実に減少している。

しかし、2030年度の目標である46%削減までには、まだ17.3ポイントの差がある。

2024年度から2030年度までの6年間で、この差を埋めなければならない。

単純に計算すると、2013年度の排出量に対する削減率を、年平均約2.9ポイントずつ改善する必要がある。

しかも、環境省は2024年度の排出量減少の主な要因として、再生可能エネルギーや原子力による電源の脱炭素化に加え、製造業の生産量減少によるエネルギー消費の減少を挙げている。

これは見逃せない。

工場の生産量が減少すれば、当然ながらエネルギー消費量もCO₂排出量も減る。しかし、それを脱炭素技術の進歩による成果と同一視することはできない。

政府が目指しているのは、経済成長と脱炭素の両立であるはずだ。

産業活動が縮小した結果として排出量が減ったのであれば、削減目標への接近と経済政策の成功を分けて評価する必要がある。

もっとも、日本の2030年度目標が達成不可能だと断定することは、現時点ではできない。今後の電源構成や産業活動、技術導入の進展によって排出量は変化する。

ただ、残された期間が短く、さらなる削減の加速が必要であることは確かだ。

世界全体に目を向けると、状況はさらに厳しい。

国連環境計画(UNEP)が2025年に公表した「排出ギャップ報告書」によれば、各国の現行政策が続いた場合、今世紀中の世界平均気温上昇は産業革命前比で約2.8℃に達すると推計されている。

各国が提出した削減公約を完全に履行した場合でも、約2.3~2.5℃という見通しだ。

つまり、各国が約束をすべて守ったとしても、パリ協定が追求する1.5℃目標には届かないというのである。

さらに同報告書は、1.5℃目標と整合する排出経路に乗るためには、2035年の世界全体の温室効果ガス排出量を2019年比で約55%削減する必要があるとしている。

世界の排出量が依然として高い水準にある中で、これほど大規模な削減を短期間で実現することは、容易なことではない。

これは温暖化対策に批判的な人々が勝手に主張している話ではない。

国連自身が公表している数字なのである。

CO₂を海外に運べば、地球温暖化は止まるのか

カーボンニュートラル政策には、もう一つ奇妙な構図がある。

それは、地球全体の温室効果ガスを減らすという目的で始まった政策が、いつの間にか各国の排出削減目標を達成するための競争になっていないかという問題である。

例えば、ある国が国内のCO₂排出量を削減するために、鉄鋼製品の生産を海外へ移転したとしよう。

国内の製鉄所が閉鎖されれば、その国の排出量は減少する。しかし、移転先の国で同じ量の鉄鋼製品が生産され、同じ量のCO₂が排出されるのであれば、地球全体の排出量は変わらない。

移転先の生産設備のエネルギー効率が悪ければ、かえって排出量が増える可能性さえある。

それでも、国内の排出量だけを見れば、目標の達成に近づいたことになる。

こうした問題は「カーボンリーケージ(炭素漏出)」として、国際的にも認識されている。

一方、国内で発生したCO₂を回収し、船舶で海外へ輸送して地中に貯留するという事業も進められている。

こちらは製造業の海外移転とは事情が異なる。CO₂を安全かつ長期的に地中へ貯留できれば、大気に放出されるはずだったCO₂を減らせるからだ。

しかし、そこにも検証すべき問題がある。

CO₂を回収し、圧縮し、船舶で海外へ輸送し、さらに地中へ圧入するためには、多くのエネルギーと費用が必要になる。

その過程で新たに排出される温室効果ガスを差し引いた場合、実際の削減効果はどの程度になるのだろうか。

また、同じ費用を他の排出削減技術に投入した場合と比較して、どちらがより大きな効果を得られるのだろうか。

地球温暖化は国境を区別しない。

CO₂が日本で発生しようと、中国で発生しようと、地球全体の温暖化に与える影響は基本的に同じである。

それなのに、各国が自国の排出削減目標を達成することばかりを優先すれば、世界全体の排出削減という本来の目的から外れた政策が生まれる危険性がある。

本当に重要なのは、どの国の排出量として計上されるかではなく、地球全体でどれだけ温室効果ガスを減らせるかということではないだろうか。

目標が先にあり、政策が後からついてくる

ここまで見てきたように、2050年カーボンニュートラルの実現には、極めて大きな不確実性が存在する。

しかし、国家政策はすでにその実現を前提として動き始めている。

日本では、2050年カーボンニュートラルの実現に向けて、GX(グリーントランスフォーメーション)という政策が推進されている。

再生可能エネルギー、原子力、水素、蓄電池、CO₂の回収・貯留を行うCCSなど、さまざまな技術が脱炭素の手段として位置付けられている。

さらに、排出量取引制度の整備や、脱炭素関連産業への投資支援も進められている。

こうした取り組みの中には、将来のエネルギー安全保障や産業競争力の向上に寄与するものもあるだろう。

しかし、ここで考えておかなければならないことがある。

政策目標の達成に役立つことと、その政策が最も合理的な選択であることは、必ずしも同じではない。

例えば、ある技術によって年間100万トンのCO₂排出量を削減できるとしても、そのために必要な費用が他の方法の何倍にもなるのであれば、費用対効果を比較する必要がある。

また、制度上は100万トンの削減量として計上できたとしても、設備の建設や運転、輸送などに伴う排出量を含めた実質的な削減効果がどの程度なのかも検証しなければならない。

さらに言えば、温室効果ガスの排出削減という目的が同じでも、その実現手段は一つではない。

技術は進歩し、経済情勢は変化する。現在は有効と考えられている方法が、10年後、20年後にも最も合理的な選択であり続ける保証はない。

本来であれば、政策目標と、それを実現するための手段は、常に検証され、必要に応じて見直されるべきものだろう。

ところが、国家目標として掲げられた数字が絶対的な前提となってしまうと、個々の事業の合理性よりも、目標に向けて事業を進めること自体が優先される危険性がある。

目的を達成するための手段が、いつの間にか手段を維持するための目的に変わってしまうのである。

金を使えば使うほど、引き返せなくなる

経済学には「サンクコストの誤謬」という考え方がある。

サンクコストとは、すでに支出してしまい、取り戻すことのできない費用のことだ。

例えば、ある事業に100億円を投資したものの、事業環境が変化し、今後さらに投資しても採算が取れないことが明らかになったとする。

経済合理性だけで判断するなら、過去に支出した100億円とは切り離して、今後の投資を継続するかどうかを決めるべきだ。

しかし、現実には「ここまで100億円も使ったのだから、今さらやめられない」という心理が働く。

その結果、さらに資金を投入し、損失を拡大させてしまうことがある。

国家政策では、問題はさらに複雑になる。

巨額の公的資金が投入されれば、それを受け取る企業が生まれる。新しい設備が建設されれば、そこで働く人々が生まれる。制度が作られれば、その制度を前提として事業を展開する企業も現れる。

こうして、政策を維持することに利害を持つ人々や組織が増えていく。

政策を変更しようとすれば、すでに投資した企業や関連産業から反発が起きる。政治家にとっても、過去の政策判断の誤りを認めることは容易ではない。

その結果、当初の政策を継続することが、必ずしも合理的でなくなったとしても、変更すること自体が難しくなる。

これは「政策のロックイン」と呼ばれる現象の一つである。

日本には、国家が一度決めた方針を容易に転換できなかった歴史的な経験もある。

1945年8月、戦況が絶望的になっていたにもかかわらず、日本の指導部は戦争継続か終結かをめぐって意見が分かれ、最終的には昭和天皇のご聖断を仰ぐことになった。

もちろん、戦争とカーボンニュートラル政策を同列に論じるつもりはない。目的も状況も、まったく異なる。

しかし、国家が一度選択した方針を転換することの難しさという点では、考えさせられるものがある。

過去に払った犠牲が大きければ大きいほど、それまでの判断を否定することが難しくなる。

カーボンニュートラル政策についても、巨額の投資を進めれば進めるほど、目標や手段の再検討が難しくなる可能性はないだろうか。

そして、もしそのような状況が生まれた場合、私たちはどこで立ち止まることができるのだろう。

カーボンニュートラルに撤退条件はあるのか

ここで、もう一つの疑問が生じる。

2050年カーボンニュートラルという国家目標には、どのような見直し条件が設けられているのだろうか。

もちろん、日本の地球温暖化対策計画にも、進捗状況を点検し、必要に応じて施策を見直す仕組みは存在する。

政策を一度決めたら、2050年まで一切変更できないというわけではない。

しかし、個々の施策を見直すことと、国家目標そのものの妥当性を再検討することは別問題である。

例えば、脱炭素政策の費用が当初の想定を大幅に上回り、国民生活や産業競争力に深刻な影響を及ぼすことが明らかになった場合、どうするのだろうか。

あるいは、現在進められている技術よりも、はるかに安価で効果的な技術が登場した場合はどうか。

世界の主要排出国が削減目標を変更し、日本だけが従来の目標を維持することによって、国内産業の競争条件が大きく変化する可能性もある。

さらに、2030年、2035年といった中間目標を達成できなかった場合、その原因をどのように検証し、どのような条件で政策を修正するのだろうか。

民間企業であれば、経営環境の変化に応じて事業計画を見直し、ときには撤退するという判断も求められる。

国家政策であっても、同様に合理的な再評価が必要なはずだ。

もっとも、温室効果ガス削減という長期的な課題には、短期的な採算性だけでは評価できない側面もある。将来の気候変動による被害を軽減する効果や、長期投資の予見可能性も考慮しなければならない。

だからこそ、目標を維持する場合にも、修正する場合にも、その判断基準と根拠を明確にする必要がある。

問題は、カーボンニュートラルを目指すべきかどうかという二者択一だけではない。

目標が現実と乖離した場合に、誰が、どのような基準で、その目標を修正できるのか。

その仕組みが十分でなければ、国家は達成困難な目標に向けて、際限なく資金を投入し続けることになりかねない。

2050年、誰が責任を取るのか

最後に、もう一つ考えておきたいことがある。

2050年という年は、今から24年も先のことである。

日本が2050年カーボンニュートラルを宣言したのは2020年。目標年まで30年間という、極めて長い期間を設定したことになる。

では、その目標を決めた政治指導者たちは、2050年に何をしているのだろうか。

おそらく、その多くはすでに政治の表舞台から姿を消しているだろう。中には、この世を去っている者も少なくないはずだ。

しかし、彼らが掲げた目標に基づいて作られた制度や設備、投じられた巨額の資金は、2050年にも残っている。

その負担を引き受けるのは、目標を決めた当時にはまだ生まれていなかった世代かもしれない。

そして、もし2050年になってもカーボンニュートラルが実現していなかった場合、いったい誰がその責任を取るのだろうか。

もちろん、国家の長期目標には、政権交代を超えて継続することに意味がある。エネルギーや社会インフラの整備には、数十年単位の計画が必要だからだ。

しかし、長期的な目標であるからこそ、その実現可能性を継続的に検証し、必要であれば修正する責任も、歴代の政権が引き継がなければならない。

ところが、政治家にとって、2050年という期限はあまりにも遠い。

目標を掲げた時点では、壮大な理想を語ることができる。その実現に必要な費用や負担は、後の政権や将来世代に引き継ぐことができる。

仮に目標が達成できなくても、その頃には自らが政治的な責任を問われる立場にいないかもしれない。

この構造には、政治的な無責任を生み出す危険性が潜んでいる。

そして、さらに深刻なのは、目標を決めた政治家がいなくなった後も、その目標を実現するために作られた制度や産業が存続し続ける可能性である。

最初は地球温暖化を防ぐために始まった政策が、いつしか政策そのものを維持するための政策になってしまう。

目標を実現するために資金を投入し、資金を投入したからこそ目標を撤回できなくなる。

その繰り返しの中で、誰も最初の決定を見直そうとしなくなる。

2050年カーボンニュートラルが実現不可能だと、今の時点で断言することはできない。

しかし、実現できるという保証もない。

世界のCO₂排出量は依然として増加しており、2030年という目前の中間目標でさえ、達成に向けた課題は山積している。

それにもかかわらず、2050年の目標を実現するための政策は、すでに巨大な資金と産業を動かし始めている。

私たちが問うべきなのは、カーボンニュートラルという理想の是非だけではない。

その理想を実現するために、どこまでの費用を負担するのか。目標や手段が現実と合わなくなったとき、誰が軌道修正を決断するのか。そして、その判断の結果に誰が責任を負うのか。

2050年を迎えたとき、壮大な目標を掲げた政治指導者たちの多くは、すでにいなくなっているだろう。

それでも、彼らが残した政策と、そのために作られた制度は生き続けているかもしれない。

私たちは、亡霊たちが作り上げた幻想に、いつまで踊らされ続けるのだろうか。


主な参考資料

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