「選挙より市民運動」──東金地域・9条の会が山武市で「平和のつどい」

東金地域・9条の会が主催する「第16回平和のつどい」が6日、山武市の成東文化会館のぎくプラザで開催された。

地元音楽グループによる歌唱に続き、元朝日新聞記者で「九条の会」世話人を務めるジャーナリスト、伊藤千尋氏が「世界に広がる憲法9条」と題して約1時間半にわたり講演した。

伊藤氏は、高市政権が日本を「戦争ができる国」に変えようとしているとの認識を示し、南西諸島へのミサイル配備や防衛費増額などを批判。「中国が明日にも攻めてくる」とする議論については、政府が国民の恐怖心をあおって植え付けた「妄想」にすぎないと主張した。

また、1948年に軍隊を廃止した中米コスタリカなどを例に、軍事力による抑止ではなく、外交や国際法によって平和を構築すべきだとする持論を展開した。

講演終盤では、韓国の朴槿恵大統領を退陣に追い込んだ大規模なキャンドルデモや、フィリピンの「ピープルパワー」、ベルリンの壁崩壊などを、選挙ではなく少数の市民運動によって政治を変えた”成功例”として紹介した。

伊藤氏は「社会の15%(1割強)の人が、一斉に目立つ行動を取れば、社会の雰囲気がガラリと変わり、それが政治を動かしていく」とする、自身が提唱する「15%の法則」を説明。

最後には、改憲反対署名への署名、街頭でのプラカードを使ったスタンディング、デモへの参加などを具体的に呼びかけ、「私たちの手で、この日本を平和な国へと変えていこう」と締めくくった。

会場では、高市内閣を名指しして批判し、憲法9条への自衛隊明記や緊急事態条項導入などへの反対を求める請願署名も配布されていた。

「九条の会」は2004年、大江健三郎、井上ひさし、小田実、加藤周一ら9人の知識人・文化人の呼びかけによって発足したもので、日本共産党の下部組織ではないとされているが、日本共産党が発足直後から九条の会の運動拡大を党として重要な課題に位置付け、全国の党組織・党支部に積極的な参加を求めていたことは、日本共産党自身の資料から確認できる。

2005年4月、日本共産党の志位和夫委員長(当時)は中央委員会総会で、全国の党組織と党支部が九条の会の呼びかけに応え、運動の「一翼をになって」積極的な役割を果たすよう求め、草の根の九条の会を全国に広げるため「党として力をつくします」と表明している。

したがって、九条の会を単純に「日本共産党の下部組織」と呼ぶことは正確ではないが、日本共産党がその発足当初から、全国の党組織を挙げて九条の会の運動拡大に取り組んできたという関係は、同党自身が公表している史料からも明らかである。

日本共産党が結成されたのは1922年7月15日。

1919年にレーニンの指導によって設立された国際共産主義組織「コミンテルン」と深い関係にあり、1922年11月のコミンテルン第4回大会で正式に「コミンテルン日本支部」として承認された。

戦前の日本共産党は非合法政党として活動し、天皇制の廃止など当時としては急進的な政治変革を掲げた。

これに対して政府は1925年に治安維持法を制定。日本共産党はその主要な取り締まり対象となり、1928年の三・一五事件などで大規模な検挙を受けた。日本共産党自身も、治安維持法によって「最大の弾圧対象」とされたと現在まで説明している。

一方、この時代の共産党をめぐっては、非合法活動の資金調達を目的とした1932年のいわゆる「赤色ギャング事件」や、党内のスパイ容疑者に対する査問の過程で死者を出した1933年の「日本共産党スパイ査問事件」など、現在まで論争を伴う重大事件も起きている。

戦後は1946年の新憲法を審議した第90回帝国議会において、日本共産党は特に九条について

「我が国の民族の独立をさえ捨てよということが、この条文に入っている」

と批判し、現在の日本国憲法の成立に反対していた。

1950年代には党が分裂し、旧ソ連や中国共産党の影響を受けながら武装闘争路線が採用された時期があり、火炎瓶闘争や山村工作隊などの活動が展開された。

現在では武力革命路線を明確に否定したとしているが、敵対勢力の出方で平和的か暴力的かを判断する、いわゆる「敵の出方論」については用語こそ使用していないが、その考え方そのものを放棄したことは明言されていない、。

そのため、公安調査庁は現在も破壊活動防止法に基づいて日本共産党を調査対象としており、同党の革命方針について警戒する立場を維持している。

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