平成30年8月末現在の山武市内のスリランカ人住民登録数は249名で、平成29年末の297名をピークに、それまでの異常な増加傾向は収束したように見える。
人口五万数千の山武市に急激にスリランカ人住民が増加したきっかけは、平成26年から始まった山武市の五輪事前キャンプ招致事業でスリランカ国と合意したことであるのは間違いないだろう。しかし、山武市同様五輪ホストタウン登録した市町村に、ホスト国の住民が増加するのかは全くの別問題である。山武市と同時期にブルガリアのホストタウンとして登録された山形県村山市に確認したとこと、市内にブルガリア人住民が急増するような傾向は全く見られないとのことだった。
山武市に急増したスリランカ人は「偽装難民」である。本来難民とは言えない「借金取りに追われている」といった理由であっても日本の入国管理局に難民申請さえすれば、審査の間事実上自由に日本国内で就労できるという入管難民制度の盲点をつき、多くの外国人が日本に仕事を求めて殺到した。山武市に急増したスリランカ人の多くもそういう人たちである。
幸い平成30年に入ってその制度が大きく見直され、事実上偽装難民の就労は不可能となり、山武市のスリランカ住民の増加に歯止めがかかったのはこのためと考えられる。
さて、そろそろ今回のコラムの本題に入りたいと思う。
東京五輪開催まであと2年と迫る仲、山武市ではスリランカとの交流事業が盛んになっている。
平成30年9月1日〜2日に成東文化会館で開催された「スリランカフェスティバル」では、スリランカの素晴らしい舞踏や歌のステージが企画され多くの観客が訪れたが、演目が始まる前の40分以上が「挨拶」だった。名誉のために名指しは避けるが、用意された紙を読むだけの挨拶なら予め配布するプログラムに掲載しておけば事足りるのだから、観客があのように興ざめする事もなかったのではないか。祝辞を賜る必要があったのは、在日スリランカ大使閣下とせいぜいもう1名の来賓位で十分だっただろう。
このイベントの主催は「さんむグローバルセンター」という「民間団体」の体裁であるものの、司会者が「山武市長松下浩明より・・・」と市長に敬称を付けずに紹介していることからも、実質的な山武市の下部組織であることは明白であるが、この様なイベント一つとっても集まった市民に楽しんでもらおうというエンターテインメント性よりも市長や議会議長といった有力者の「挨拶」を優先させる「お役所体質」が見え隠れすればするほど、シラケてしまう市民が増えるのは自明だろう。
しかし、小筆が指摘したいのはもう少し別のポイントである。
「なぜ、スリランカとの交流なのか?」
山武市自体がその意義を全く理解していると考えられない。
そもそも、山武市が五輪事前キャンプ招致先をスリランカに決めた理由が、「先進国に持ちかけても相手にされないが、後進国なら話に乗るかもしれない」という、極めて恥知らずな動機からだったことはすでに山武ジャーナルで報じている。
(※「後進国」という言葉は本来極めて不適切な差別的用語ですが、教育長の発言として山武市の公文書となっていることから、山武ジャーナルでは不本意ながらこの文脈においてのみ使用します。)
この時点での山武市は、手厚い交付金を受けられる国のホストタウン事業への登録条件をみたすため、何としてでも「どこかの後進国」と招致を合意する必要があった。山武市にとってスリランカは二百余の五輪参加国の中のうち、話を聞いてくれた都合の良い後進国の一国でしかなかったのである。
スリランカのジャヤワルダナ元大統領は、日本にとっての大恩人だ。ジャヤワルダナ氏がいなければ、今の日本はなかったかも知れない。少なくとも小筆はそう考えている。
大東亜戦争に敗れてGHQに占領された日本は、昭和26年(1951年)のサンフランシスコ講和会議を経て翌年発効されたサンフランシスコ平和条約により独立国として国際社会に復帰した。
その際、ドイツ同様日本の分割統治を強く主張したソ連に対し、真っ向反対の立場で日本独立を主張してくれたのが、セイロンの外務大臣だったジャヤワルダナ代表だった。
少し長くなるが、ジャヤワルダナ代表の演説を引用する。(訳文の関係で冗長な感は否めないので、今の段階では赤くハイライトした部分だけ読むか、あるいは読み飛ばしてもらっても大丈夫だ。)
賛同を勧誘されている平和条約草案について、セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に提出する機会を与えられましたことを、私は大いなる特典と考えます。
私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から成り立っていますが、本条約に対して向けられたいくらかの批判を反ばくする企てもあります。もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、然し日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明出来ると主張します。
私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで持って行った出来事について、語る必要はありません。アメリカ代表ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それ等の出来事を詳細に且つ丁寧に我々に示されました。然しながら、次の事柄は述べて置いてもよいと思います。
即ち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに関しては、四大強国の間で探刻な意見の衝突があったことを述べて置いてもよいと思うのです。
ソ連は、四大強国だけが、即ちアメリカ、イギリス、中国及びソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、そして若し条約草案作成のために他の国々が加入するのであれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。イギリスは、自治領は相談を受けるべきであると主張し、アメリカはこれに賛同しました。両国は又、対日戦争に参戦したすべての国々と相談することを支持しました。これ等の諸国の間では又、違った考慮から、条約の実際の条件に関する意見の相違がありました。ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を忘れ兼ねて、意見がわかれました。
敢えて意見として述べますが、完全に独立した日本のための主張がはじめて提出され、考慮されたのは、1950年1月に開催された連邦外相のコロンポ会絨に於いてでありました。このコロンボ会議は、日本を孤立させたケースとして考えるのではなく、南アジア及び東南アジアとして知られている地域の一員として考えられました。世界の富と人口の大部分を含み、最近になって漸く自由を回復した国々からなる南アジアと東南アジア、それ等の国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、今尚苦しんでいます。
この会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。一つは独立国日本のそれであり、他方は南アジア、東南アジア諸国民の経済的、社会的開発の必然性で、それを確保するためにコロンボ計画として現在知られている計画が着手されました。
ケンネス・ヤンガー氏は、コロンボ会議の後に連邦諸国長官の運用委員会が条約草案の仕事にかかった経過を説明され、そしてその後にアメリカ代表ダレス氏と相談されたことを説明されました。
今我々の前にある条約は、これ等の協議と折衝の成果であります。
私の政府の見解の或る部分がそこに主張されていますが、私の政府の見解でないものも主張されています。私は現時点に於いて、日本と進んで和平を討議したいとする諸国の聞で達成出来る同意の最大の共通な尺度を告げていると、私は主張します。日本に対する態度に於いて、セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は、日本は自由でなければならないという最大の考えによって動きました。本条約はその考えを完全に具現していると私は主張します。日本の自由という事柄について付帯的な他の問題があります。即ち自由は本州、北海道、九州、四国の主要の島々に限定されるべきであるか、或いは近隣のいくつかの小さい島々にまで広げるべきであるか。若しそうすべきでないのなら、これ等の島々は如何にすべさか。台湾は1943年のカイロ宣言に従って中国に返還されるべさか。若しそうすべきであるのなら、中国のどちらの政府へ? 中国は平和条約会議へ招くべきか。若しそうであるのなら、どちらの政府を? 賠償は日本から強要すべさか。若しそうなら金額は。日本が自国の防衛を組織するまでは、どの様にして自らを防衛するのか。日本の自由という中心問題について、我々は究極には同意することが出来ました。そして条約はその同意を具現しています。他の問題については際立った意見の相違がありましたが条約は大多数の見解を具現しました。若しこれ等の諸問題の或るものが違った方法で解かれていたら、私の政府はその方を好んだでありましょう。然し大多数が我国に同意しないという事実は、自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、我国が調印するのを控える理由にはなりません.最初に私が言及しました関連のある事柄は、日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、日本が自由にならなければ解決不可能であると我国は思います。
自由の日本は、例えば国連組織を通じてこれ等の問題を世界の他の自由諸国と討議することが出来、早目に満足すべさ決議に到達出来ましょう。本条約に署名することにより、我々は日本をしてそうすることが出来るようにさせます。即ち日本が中国を承認すると決定するならば、中国政府と友好条約を結ぷことが出来るようにと、そして日本をして印度と平和友好条約を結ぶことが出来るようにさせると私が述べるのは、大変嬉しいことであります。若し我々が本条約に調印しなければこれ等起こり得ることは、何れも起こり得ないでありましょう。何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア緒国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。
私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアの為の共存共栄のスローガンが今問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者の或人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます.セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。我国はそうしようとは思いません。何故なら我々は大師の言葉を信じていますから。
大師のメッセージ、「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によってのみ止む」はアジアの数え切れないほどの人々の生涯(生活)を高尚にしました。仏陀、大師、仏教の元祖のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、シャム、インドネシアそれからセイロンに伝え、そして又北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたのであります。この共通文化は未だに在続しています。それを私は先週、この会議に出席する途中日本を訪問した際に見付けました。又日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々は今も尚、平和の大師の影の影響のもとにあり、それに従って行こうと願っているのを見いだしました。我々は日本人に機会を与えて上げねばなりません。そうであるから我々は、ソ連代表の云っている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同出来ないのです。
ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、そして、彼が提議する他の制限は、現在ここの会場に居られる代表の大多数の方々にとって受け人れ難いものにするばかりでなく、この会議に出席されなかった国々の中の或国、特にこの条約のありありと心に描くところより更に進んだ所へ行きたい印度にとってさえも、受け入れることが出来ないものにします。若し再びソ連がカイロとポツダム宣言に反して、日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるのなら、それでは何故南樺太は、千鳥列島もまた日本へ返還されないのか?私は興味をもって、次の事に注目します。即ちソ連の修正案は、日本国民に基本的表現の自由、新聞及び宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、及び公開の集会の自由を保証しようと要求しています。—–ソ連の国民自身でさえも所有し享有したいと心から執着したいであろう自由をです。
セイロンに於ける我々は、幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起された損害、東南アジア司令部に属する大軍の駐屯による損害、並びに我国が連合国に供出する自然ゴムの唯一の生産国であった時に於ける、我国の主要産物のひとつであるゴムの枯渇的樹液採取によって生じた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。