スリランカは一番安全な国?
「怖いのはゾウさんに踏まれることと蜂に刺されることくらい。現地の人は優しく、スリランカは一番安全な国。」
平成28年7月24日、山武市のスリランカ青少年派遣事業に参加した生徒らを送り出す際の、椎名千収山武市長の発言だ。
五輪基準の練習場も宿泊施設もない山武市が、国の施策である「ホストタウン」に名乗りを上げるための条件は、相手国との事前合意だった。山武市はたまたまスリランカとの太いパイプを持っている市民を探し出し、市長、副市長、議会議長らがスリランカを訪問し、同国と五輪キャンプに関する書簡を交わした。
その際の条件の一つが、山武市からの青少年の派遣事業と、スリランカからの受け入れ事業だった。
日本国外務省の「海外安全ホームページ」によればスリランカの危険度は、大部分の地域が「レベル1」に、北部の一部が「レベル2」に指定されている。
今回の研修旅行で「レベル2」の地域は日程にない。
しかし、「レベル1」といえども、外務省は「その国・地域への渡航,滞在に当たって危険を避けていただくため特別な注意が必要です。」と勧告しており、決して「安全」と言い切ることはできない。
一体、椎名千収山武市長は何を根拠にスリランカを「一番安全な国」と言い切ったのだろうか。
外務省が指摘しているのはゾウや蜂の危険ではない。コロンボにおいても、日本人に対する婦女暴行、詐欺、麻薬、置き引き、窃盗などの被害が報告されている。また、スリランカ人のムスリムがISILの紛争地域で死亡したことが確認され、国内でもISILメンバーあるいはそのシンパによるテロが警戒されている。
この件について山武市のオリ・パラ戦略推進室に対して「スリランカは一番安全な国」という、市長と共通の認識を持っているのか確認したところ、担当者はそうは考えていなかった。
今回の派遣事業はバングラデシュのテロ事件を受け、直前まで中止を含めて様々に検討を重ね、外務省やJICAなどにも意見を聞きながら安全と判断できたため実施したとのことだった。さすが、日本の地方公務員は優秀である。
しかし、めまぐるしく変化する国際情勢で、東京五輪までの4年間で状況がどのように変化するか予想できない。
その際、いかに優秀な公務員が的確な報告をあげようとも、最終判断を下すのは市長である。
スリランカとの合意、あるいは「ホストタウン」認定を受けた国に対するメンツ=特別地方交付税を優先し、市長が「スリランカは一番安全な国」といってしまえば、山武市の青少年派遣事業は実施される。
3人のために4億5,000万円?
リオ五輪のスリランカ選手団は9名。うち、フィールド競技は男子やり投げ1名、マラソンが男女各1名の計3名。パラリンピックへの参加は確認できなかった。
東京五輪にどれだけの選手が参加するかは現時点で誰も分からないが、もし今年の五輪と同じ規模の選手団だった場合、成東運動公園を4億5,000万円掛けて全天候型のトラックに改修しても、使う選手はたったの3人ということになる。
この点について山武市オリ・パラ戦略推進室は
「オリンピックだけが改修の目的ではない。各方面から砂地のトラックを改修して欲しいという要望が出ている」
と回答した。
具体的にどこから要望が出ているのかという問いに対しては
「体育協議会と学校」
との事だった。
しかし、体協も学校もいずれも教育委員会の管轄であり、成東運動公園も同じ教育委員会に属するスポーツ振興課の管轄である。
身内の要望に対して身内が「各方面から要望が出ている」というのは、マッチ・ポンプにも程が有るのではないだろうか。
ちなみに、山武市は東京五輪のスリランカ参加選手団を最大25名、随行者を合わせて50名規模と想定している。根拠は不明である。
でも、頑張れ!キミコちゃん
リオ五輪女子背泳のスリランカ代表は、キミコ・ラヒームさん。
明らかに日本風の名前だ。しかも、妹もマユミ、マチコと同じく日本風の名前で、やはり同じく水泳選手の様である。
スリランカが大変な親日国であり、かつ戦後のサンフランシスコ講和会議の際に戦勝国による日本の分割統治に異議を唱えてくれた恩人でもあることは以前の記事でも書いたが、実際にこの様な人を見ると日本人としてとても嬉しく誇らしい気持ちになる。
キミコさんがリオ五輪で活躍することを願ってやまない。
そして、4年後の東京五輪にも出場を果たせば、事前キャンプで山武市にも来ることになる。
キミコ・ラヒームさんが来日して、同じ名前の日本人との交流などが始まれば、両国にとって本当に素晴らしいことになるだろう。妹のマユミさんやマチコさんにも是非選手として日本に来て頂きたいものである。
小筆が山武市の五輪招致事業に批判的なのは、決して五輪やスリランカとの交流を否定しているからではない。
だが、五輪を免罪符として不要な税金を使い、利権に与ろうとする一部の不届き者に対しては、常に厳しい目で臨むものである。